徳川四天王 本田忠勝とはどんな人物?
徳川四天王のひとり、”本多忠勝(ホンダ タダカツ)”。
天文17年(1548年)に生まれ、慶長15年(1610)の12月3日に62歳で亡くなった人物です。
彼は「徳川四天王」としても有名ですが、その他にも「徳川十六神将」や「徳川三傑」と呼ばれるほど、徳川に貢献し、武勲もたてた人物なのです・
徳川四天王”本多忠勝” 誕生から初陣まで
本多忠勝は現在の岡崎市に生まれました。
最古参の譜代で、本多忠高の長男として生まれ、幼名は”鍋之介”、通称は、平八郎。
父親の忠高は平八郎2歳の時に戦死したため、叔父の本多忠真(タダザネ)のもとで育ちました。
忠勝の初陣は桶狭間の戦いで、大高城(オオタカジョウ)兵糧入れをすることでした。
忠勝(鍋之介)はこの初陣に際し元服をしました、忠勝13歳の時です。
しかし、この時、危うく敵将織田方の武将に打ち取られそうになったところを、叔父・本多忠真(ホンダタダマサ)に救われました。
この忠真も槍の名手でした。
忠勝15歳の折、三河の鳥屋根城を攻め、叔父忠真が敵首をとり、これを手柄にせよと言うの聞いて「人の力を借りて武功とはしない」といい、敵陣に駆け行って首を上げ、周囲のものに関心されたと言われています。
桶狭間の戦いでの本多忠勝
桶狭間の戦いの時(1560年)今川義元から、松平元康(後の徳川家康)に大高城への兵糧入れの命令が届き、この時忠勝も家康に従いました。
織田軍に囲まれ、補給が途絶えた大高城。
元康は織田方の砦を縫うようにして、無事兵糧を届けることに成功しました。
この時忠勝、13歳。
元康(家康)は兵糧を入れたあと、真夜中から丸根砦と鷲津砦を攻撃してこれを落とし、大高城で休息していました。
そこに義元が討たれた知らせが入ります。
急ぎ岡崎城下へと撤退しますが、織田方に追われ、8騎まで数を減らします。
そんな状態で元康一行は、命からがら岡崎へ帰りました。
この時、菩提寺大樹寺に立ち寄り、先祖の墓前で自害まで考えるほどでしたが、住職の登誉(トウヨ)上人に諭されて、岡崎城に向かったと言われています。
岡崎城は、今川方の駿府衆達が逃げて空き城となっていて、元康とともに忠勝も入城しました。
戦の中の本多忠勝
永禄6年(1563年)三河一向一揆蛾起き、家臣団が一向宗側につくもの、家康につくものとに分かれての戦となり、忠勝は徳川方として戦いました。
忠勝の働きぶりは家康の目に留まり、愛用の蜻蛉切(トンボキリ)と呼ばれる槍とともに有名になりました。
さらに19歳の時には、旗本先手役(家康直属の精鋭部隊)に抜擢され、54騎を率いる武将になりました。
榊原康政、井伊直政もそうです。
いずれも後に、家康の重臣となっています。
元亀元年(1570年)姉川の戦いに参加し、朝倉軍1万に単騎で突撃します。
また、横から榊原康政の別動隊に朝倉軍の横を攻撃させました。
家康本軍は、忠勝を援護しようとして追いかけて必死に攻撃をかけ、朝倉軍の撃破につながったと言われています。
家康は、武田信玄と同盟を結んでいましたが、元亀2年(1571年)信玄が、兵を率いて、三河に侵攻してきます。
一度は、兵を引いた信玄でしたが、翌年(1572年)三河へと侵攻してきます。
掛川城、高天神城(現・静岡県掛川市)を落とし、二俣攻めに向かいます。
家康は、本田忠勝らを偵察隊として先行させながら、家康本人も出陣します。
しかし家康は一言坂(ヒトコトザカ)(現・静岡県磐田市)で、武田軍とぶつかり敗北します。
この時、追撃する武田軍を食い止めるため、忠勝(通称平八)がしんがりを務め、家康率いる本隊を逃がし、撤退を無事に完了させました。
この時忠勝の陣は馬場信春と、背後から信玄の近習(キンジュウ)小杉左近の部隊に挟み撃ちにされます。
忠勝は必死の覚悟で坂を下り、小杉部隊に突撃しました。
その勢いがすざまじかったため、小杉左近は道を開けて、通過させたと言われています。
この時忠勝は、馬を止め、小杉に礼を述べて去っていきました。
忠勝は、黒糸威胴丸具足(クロイトオドシ、ドウマルグソク)と鹿角脇達兜(カズノワキタテカブト)を身に着け奮闘しました。
この戦いぶりに武田の小杉左近は戦の後、「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八」と狂歌を詠み、これが世に広く知られる事になりました。。唐の頭とは、ヤクの毛を用いて作られた中国産の珍しい兜で、家康の愛用品でした。とても貴重なもので、平八(忠勝の通称・平八郎)は、それ並ぶほどで、家康にはもったいない武将だと称されました。
この後信玄は、二俣城を攻撃します。
戦いは膠着状態になり、1カ月に及びましたが、二俣城が落ちます。
次は浜松城と思い、家康は空城の計(クウジョウノケイ)の先を取り、すべての城門を開いて敵を招き入れようとしました。
しかし、山県昌景は、伏兵を警戒し、引き上げました。
この後追撃した家康は、三方ヶ原で武田軍に大敗をします。
しかし左翼を担った忠勝は、武田軍最強といわれた、山県昌景(武田の赤備えを率いた武将)を後退させています。
長篠・設楽原の戦いでの忠勝
信玄が天正元年(1573年)になくなると、武田家はそれを隠しますが、家康は信玄の死を確信し長篠城(現愛知県新城市)への攻撃を開始し、これを落とします。
奪還しようとする武田勝頼率いる武田軍と織田・徳川連合軍とで、戦いとなります。
戦いの中、名将山県昌景(武田四天王で、武田の赤備えと言われた最強部隊の将)が、家康の本陣へ攻めてきました。
しかし忠勝は、鉄砲隊で応戦し、山県は最期を遂げました。
また、戦いが武田の名だたる武将達が次々と戦死していた頃、武田勝頼より先に逃げ去るものも出ていましたが、それでもなお、内藤昌豊が手勢を率いて家康本陣へと攻撃し、忠勝が、槍でこれに立ち向かいました。
内藤は馬上でたくさんの矢を受け、落馬して打ち取られました。
敗れた武田軍は、多くの将と兵を失う結果となりました。
本能寺の変での本多忠勝
家康とともに、徳川四天王の忠勝も安土城へ赴きました。天正10年(1582年)のことです。一行は、その後、京都、堺を見物し、買い物もしました。さらに堺の豪商の茶会に招かれたりもしました。
しかし、堺を出て、京都へ戻ろうとした時、本能寺の変が起ました。茶屋四郎次郎が、信長の死をがしらせました。
信長の死に慌てた家康を忠勝が、諫め(いさめ)伊賀越えが決まりました。
伊賀出身の服部半蔵と茶屋四郎次郎が先発し、未然に落ち武者狩りを防いだと言われています。(現在は、別ルートではとの研究もある)
小牧・長久手の戦いの中の本多忠勝
小牧・長久手の戦いで忠勝は留守を任されていたが、徳川軍苦戦し崩れているの報を聞くと、わずか500名の兵を率いて小牧からかけつけます。
豊臣軍の500メートル先に立ちはだかり、龍泉川寺川に単騎で乗り入れ、悠々と馬の口を洗わせ、豊臣軍はこれにより進撃をためらい、戦機が去ったと言われています。
しかし秀吉が、忠勝の豪胆さをほめて、討つべからずと言ったとも言われています。
また織田信雄(ノブカツ)からも賞され、法成寺という刀を賜っています。
天正18年(1590年)に家康が関東に移ると翌年、上総国夷隅郡大多喜(カミフサグン、オオタキ)(現千葉県)家臣団第2位の10万石を与えられた。
その後関ケ原の戦いに参戦します。
慶長5年(1600年)のことです。
この戦いでは軍目付として働き、毛利家との交渉を井伊直政と協力し行いました。
初大名に井伊直政と連著で書状を送り、東軍方につける工作もしています。
本戦でも活躍し、わずかな手勢で90もの首を上げています。
慶長6年(1601年)には、伊勢の国桑名(クワナ)(現・三重県桑名市)10万石に移さました。
この桑名は、「十楽の津」と呼ばれるほど商業都市として発展していた土地でした。
旧領は次男忠朝(タダトモ)に5万石で与えられました。
忠勝は桑名藩創設の名君となったのです。
しかし3年後の慶長9(1604年)ごろから病がちとなり、江戸幕府中枢から退きます。
隠居を申し出るも、家康にとどめられました。
さらに3年後の慶長12年(1607年)、今度は眼病を患うようになりました。
慶長14年(1609年)やっと家督を忠政にゆずり隠居しますが、翌年、慶長15年(1610年)桑名で亡くなります、63歳でした。
この時重臣2名が殉死し、忠勝の左右に埋葬されています。
愛槍は蜻蛉切り(トンボキリ)、生涯、57回の合戦の参戦し、かすり傷1つ負わなかったとされています。
榊原康政とは、親友同士でした。
忠勝の室妻と側室
忠勝の正室は、於久の方。
阿知和玄鉄(アチワゲンテツ)の娘で、阿知和氏は松平の一族でした。
阿知和玄鉄は松平家の分家である、能美松平家(ノウミ)の松平重親(シゲチカ)の長男で、松平玄鉄(重鉄)とも名乗っていました。
忠勝は於久の方と結婚する前に妻がいました。
松下弥一という武士の娘で、乙女の方でした。
乙女の方は父の松本弥一を亡くし、岡崎城下の妙源院に預けられていました。
そこのお寺は忠勝が孫氏の兵法を習いに通っており、2人はそこでひかれあいます。
やがて忠勝は出世し、永禄9年(1566年)青年騎馬隊隊長となり、3万6千石の所領と岡崎城黒御門内に屋敷をもらいます。
忠勝はそこに母の小夜(サヨ)と乙女を呼び寄せます。
ここで2人は、事実上の夫婦となるのです。
乙女の方と結ばれて3年後、忠勝は於久の方と結婚します。
乙女の方は忠勝に小松姫を生み、その後3人の姫を生みます。
小松姫はのちに真田信之の妻となります。(小松姫の母親については、於久の方とする説もあります)
於久の方と忠勝は、家康の仲立ちで結婚します。
於久の方は、嫡男、忠政、次男忠朝(タダトモ)
姫1人を生みました。
慶長6年(1601)に忠勝が、桑名10万石に移されたとき、於久の方は、次男忠朝と忠勝の旧領地の大多喜(オオタキ)にとどまったとされています。
しかし、乙女の方は、桑名まで同行しました。
於久の方(見星院)は、そのまま大多喜で過ごし、慶長18年(1613)に亡くなります。次男忠朝は、2年のたたず、大坂夏の陣で戦死します。
乙女の方(月量院)は、忠勝の死を看取り亡くなったとされていますが、いつかははっきりしていません。