7月7日と言えば、七夕!ですね。
七夕と聞いて頭に浮かびやすいのは織姫と彦星。
なんともロマンチックな話ですよね。
ですが、七夕の由来や歴史はご存知ですか?
短冊を飾る理由や、七夕の日に食べる食べ物は?
この記事では日本文化と民俗学にドはまりした私が、七夕についてわかりやすく解説していきましょう。
目次
七夕の由来とは!
七夕というのは五節句の1つ。
これを七夕の節句と言われます。
3月3日の桃の節句(上巳の節句)や5月5日の端午の節句などと一緒なんです。
七夕は奈良時代にはあったのじゃ
七夕は、貴族たちの文化として奈良時代にはあったんだ。
庶民の間に広がったのはそれからずっと後、江戸時代になるんだよ。
七夕は奈良時代には貴族の文化としてありました。
しかしそのころの七夕は今とはかなり違います。
それではまず七夕伝説と七夕の歴史について知っていきましょう。
七夕伝説は日本と中国の合作?
七夕伝説というと、織姫と彦星。
天の川で分かたれた2人が1年に1度だけ会える日。
そんなイメージがありませんか?
実はこの伝説、日本と中国の伝説が合わさった話なんです。
- 棚織津女(たなばたつめ)伝説
- 乞功奠(きっこうでん/きっこでん)
この2つの伝説が合わさりました。
棚織津女伝説といいましても、古事記に登場することはありません。
ただ、棚織津女という言葉だけは万葉集には登場していますが、その登場の仕方は七夕伝説とは関係はありません。
ここに中国の乞功奠が合わさりました。
織姫(織女)と彦星(牽牛)が1年に1度だけ会えるのが7月7日。
この時に針仕事を司る織女に上達を願ったとされています。
この2つが合わさって現在の七夕伝説の形になりました。
七夕の歴史
日本で七夕行事が行われるようになったのは奈良時代。
今から1300年以上前には七夕があったのです。
当時の七夕は宮中行事として行われていて、芸事の上達を願う意味合いがあったんです。
そして平安時代には、果物や野菜・海産物を供えながら、星を見ました。
その時、星を見ながら香を焚いて楽を奏でながら詩歌を楽しんだと言います。
この時代にも願い事を書いていたのですが、書くのは紙にではなく梶の葉!
そして書くのは願い事ではあるけどもただ願い事を書くのではなく和歌で願い事を書いていました。
なんとも雅な雰囲気だね。
ちなみに梶の木は神聖な木とされてきたのじゃ。
だからいろんな祭具としても梶の木は使われておるのじゃ。
ここで平安時代から時間を飛ばして江戸時代に移ります。
江戸時代になると宮中行事だった七夕が庶民の行事になり全国に広がっていきます。
このころも野菜や果物を供えて願い事を書きました。
しかし書いたのは梶の葉ではなく5つの色の短冊に願い事を書きました。
そして願い事を書いた短冊を笹竹につるすようになり、星にお祈りをするようになりました。
今の七夕祭りにほとんど近い形ですね。
七夕はいつ?太陽暦と太陰暦で違います
七夕というと7月7日。
なのですが、今のカレンダーは一般的に太陽暦と呼ばれるグリゴレオ暦なっています。
それ以前の明治6年(1873年)までは太陰太陽暦というものを使っていました。
一般的には太陰暦と言われていますね。
暦が変わったことで同じ7月7日でもグリゴレオ暦と太陰太陽暦では違います。
どのくらい違うかと言うと、毎年差があるので何日違うとは言えませんが、太陰太陽暦だと7月は今の8月くらいと思ってください。
大雑把に言うと1カ月ほどのずれがあります。
なぜ毎年違うのかと。
それは太陰太陽暦が月を基準にしているからです。
月の満ち欠けから作られているので1カ月は30日と29日を繰り返します。
12カ月なのは同じなのですが、そうすると今の太陽暦と比べて1年が11日ほど短くなります。
そこで2~3年に1度、閏月(うるう月)をつくり13か月の年をつくることでずれを合わせるのです。
この影響で太陽暦と比べると毎年違う日になってしまうんですね。
七夕で笹竹を飾るのはいつから?なぜ?
七夕で短冊を飾るというとやっぱり外せないのが笹竹。
笹竹を見ると「七夕の季節だな」って思うくらい。
でもなんで竹なんだろう?
七夕というと笹竹に短冊を飾っている風景を思い浮かべるくらい、七夕というと笹竹は必ず頭に浮かびますね。
笹竹を飾るのにはちゃんと理由があります。
それは竹の持つ神秘性が原因なんです!
縁結びで有名な教徒の地主神社のホームページにはこのように七夕の笹竹について書かれていました。
冬でも緑を保ち、まっすぐ育つ生命力にあふれた笹や竹には、昔から不思議な力があると言われてきました。神聖な植物ゆえに、そこに神を宿すことができるとも言われています。祭りの後、竹や笹を川や海に飾りごと流す風習には、竹や笹にけがれを持っていってもらうという意味があります。
このように笹竹というのは特別なものとして考えられてきたんです。
竹はそのほかの木と比べて大きく違います。
- 節々があり、中は空洞になっている
- 1日で100cmを超えて成長することがある
- 60年や120年に1度、一斉に開花する(種類によって違います)
昔の人間にとって竹という植物は、とても不思議なものだったことでしょう。
中が空洞になっているというだけでも、ほかの木々とは大きく異なります。
ほかの植物と大きく違う竹の特異性が、竹に神聖さや神秘性を大きくもたらしたのです。
物語に見る笹竹の神秘性
笹竹の神秘性についてみんなが知っているある物語にもあらわされています。
一体何かわかりますか?
正解は、「かぐや姫(竹取物語)」です!
かぐや姫は光る竹の中から生まれてきますね。
笹竹の成長も早いのですが、かぐや姫もとても速い成長をします。
なんと、たった3カ月で成人女性の姿に成長するのです。
これがもし柿から生まれるなんてのでは、この物語は成り立ちません。
竹の驚異的な成長速度がかぐや姫にも現れているんですね。
竹から生まれるから、驚きの成長速度をもち、神秘的な力があるかぐや姫になれるんです。
そしてかぐや姫は最後に月へと帰っていきます。
普通ではない特別なものというあらわれですね。
このように、みんなが知っている物語にも笹竹が特別なもの・神秘的なものというのがこめられているんですね。
五色の短冊を飾るのはどうして?
七夕の歌をごぞんじですか?
小学校の頃に習う歌の中に「たなばたさま」という童謡があります。
のきばにゆれる
お星さまキラキラ
きんぎんすなご
ごしきのたんざく
わたしがかいた
お星さまキラキラ
そらからみてる
こんな歌です。
この2番の最初にも書かれている「五色の短冊」
なぜ五色の短冊を飾るようになったのかには日本人の生活の内側にしみこんだ‘‘ある思想‘‘と歴史が関わっています。
日本人の生活に昔からかかわってきた陰陽道の思想
五色の短冊には、陰陽道の思想が影響しています。
陰陽道はもともと中国にあった「陰陽説」と「五行説」を合わせて考えられた「陰陽五行説」が関係しています。
この五行というのはたくさんの人が聞いたことがあるんではないでしょうか?
五行というのは、木・火・土・金・水を表します。
簡単に説明するとこの5つにすべてのものは分類でき、お互いに影響しあうというものです。
この五行にはそれぞれに色が分けられています。
木は青、火は赤、土は黄色、金は白、水は玄(黒)
この5色が五色の短冊の色なのです。
ただ、黒に文字を書くのは大変ですね。
そのため、黒の代わりの色として高貴な色とされてきた紫が使われるようになりました。
五色の短冊は江戸時代から始まった
五色の短冊を飾るようになったのはいつからなのでしょう。
それは江戸時代に庶民の間に七夕が広がったころからなのです。
陰陽道が民間に広く広がったのもこのころから。
江戸時代になる少し前、豊臣秀吉の時代。
陰陽師はそれまで国で陰陽寮という機関に雇われていました。
簡単に言うと、今でいう公務員だったわけです。
しかし豊臣秀吉が天下を取った後、この陰陽寮を無くしたのです。
秀吉は農民の出身ですから、重要性がわからなかったのでしょう。
秀吉による陰陽道への弾圧のため、それまでは民間へは出なかった陰陽道も一気に民間へ流れていきました。
そりゃあ、仕事がなくなっては生きていけませんから、そうなるのも仕方ないですよね。
そしてその後の江戸時代。
この時には陰陽道は民間でとても広まっており、民間信仰として陰陽道がたくさんの人の生活に根付くことになったのです。
民間への七夕と陰陽道の広がりが五色の短冊を生んだんですね。
七夕のときに食べるものとは
3月のひなあられや菱餅、5月の柏餅みたいに。
5月の端午の節句のときに、柏餅やちまきを食べるように、七夕の時にも食べるものがあります。
七夕に食べるものって、イメージがわきにくいですね。
七夕のときはこんなものを食べるんです。
- 索餅(さくべい・さくへい)
- そうめん
索餅ってなかなか聞いたことがないかなと思いますが、そうめんは馴染みのある食べ物ですよね。
七夕のときに食べる索餅(さくべい・さくへい)って?
七夕のときに食べる索餅(さくべい)。
これは中国が由来の食べ物です。
中国で索餅(さくべい)の索は太い縄を表します。
餅は小麦粉と米粉を混ぜ合わせたもののこと。
日本で言うところのモチではないんです。
これを焼いたりあげたりして作ります。
ねじりかりんとうのようなイメージの食べ物です。
これを食べるようになった理由は、中国の逸話にあります。
昔中国の帝の子が若くしてなくなり、その後、熱病のはやり病が起こりました。
その時、索餅(さくべい)をお供えすることで流行り病がしずまったのです。
これが日本に伝わり七夕のときに食べるようになったのです。
ちなみに索餅(さくべい)が日本に伝わったのは、奈良時代!
七夕と共に伝わってきたんですね。
七夕に食べるそうめんは5色!
七夕のときに食べるものとしてそうめんがあります。
なんでそうめん?と思われそうですが、これは先ほど紹介した索餅(さくべい)が変形して言った形と言われています。
索餅→索麺→素麺というように変わっていったのです。
平安時代から鎌倉時代にかけての資料には、実際に索麺という言葉も出てきており、それ以前には出てきません。
また、平安時代には石臼が日本に伝わってきていたため、製粉技術も当時からありました。
民間に広まっていったのは江戸時代と言われていて、今のそうめんの形が出来上がったのは室町時代後期になります。
さらにそうめんを干している姿は糸が垂れ下がっているようにも見えます。
そのことから七夕の機織りの話とも重なり、そうめんを食べるともいわれています。
七夕祭り
七夕の時期にはたくさんのお祭りがあり、七夕祭りと名前の付くものも全国にたくさんあります。
山車をひいてお囃子のあるものや、花火大会のようなもの、特徴的なお祭りなどとあります。
七夕は本来は「しちせき」と読みます。
節句としても「七夕(しちせき)の節句」と読みます。
七夕を「たなばた」と読むことは現在のお祭りにも関わってきます。
「たなばた」はもともと棚幡、もしくは棚機から読み方が来ていると言われます。
お盆に用意する棚幡や、昔は豊作を祈る農耕の祭りを棚幡と言ったりしました。
そして棚機は棚機津女(たなばたつめ)からきています。
これらが合わさって七夕を「たなばた」と呼ぶようになり、意味合いも混ざり合っているともいわれます。
そのため、七夕祭りには豊作祈願のものもあるんです。
日本三大七夕祭り
日本の七夕祭りには三大祭りと言われる有名なものがあります。
- 仙台七夕まつり(宮城県仙台市)
- 湘南ひらつか七夕まつり(神奈川県平塚市)
- 安城七夕まつり(愛知県安城市)
この3つが日本三大七夕祭りと言われています。
旧暦の7月7日に行われ、200万人の観光客が来るほどの賑わいがあります。
仙台駅前からのとても豪華な笹飾りや様々なステージイベント。
七夕について学べる学習コーナーなどがあります。
中心街にはたくさんの豪華な飾りが埋め尽くし、なかには10メートルを越える大きな飾りもあります。
毎年の飾りには、その年のはやりなどの象徴的なものが作られることがおおいです。
近年は150万人を超える観光客が参加しています。
ステージイベントや、こだわりを持った手作りの竹飾りを作ったりと次第に大きなお祭りになっていきました。
現在では100万人の人が参加し、七夕飾りのほかにも多様なステージやダンスバトルなどと楽しめるようになっています。
安城七夕まつりホームページ
七夕について おわりに
最後にもう一度全体を振り返ってみましょう。
- 七夕は1300年以上前の奈良時代からある行事
- 全国に広がったのは江戸時代
- 笹竹を飾るのは竹が神秘的な植物だから
- 五色の短冊を飾ることは陰陽道の文化が関係している
- 七夕にはそうめんを食べる
あなたの知らない七夕が見つかりましたか?
和歌で願い事を書いていたことにとても驚いたよ!
写真で見た現代の祭りの景色はとてもきれいで見に行きたい
七夕には一言では言い表せないような歴史やロマンが詰まっています。
せっかくですから次の七夕には学問の上達などを願い、そうめんでも食べてみませんか?