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徳川家康の年表をわかりやすく解説!!

江戸幕府を開く徳川家康。

大きな時代を作る歴史的人物であります。

さて、皆さんは徳川家康がどんな生涯を送ったのか、ご存じですか?

この記事では次のように徳川家康について年表にしています。

この記事でわかること
  • 徳川家康の誕生〜幼少期
  • 元服〜桶狭間の戦い
  • 織田にくだる〜徳川家康と名乗る
  • 今川氏の滅亡〜長篠・設楽原の戦い
  • 本能寺の変〜豊臣秀吉の台頭
  • 江戸へ〜関ヶ原の戦い
  • 江戸幕府を開く〜晩年

このように7つにわけて、出来事を紹介しつつ、徳川家康の年表にしていますので、意外な発見もしていただけるかと思います。

約5分程度で読める記事ですので、ぜひ目を通してみてください。

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徳川家康の年表 誕生~幼少期

【天文(テンブン)11年:1542年】三河の国(現在の愛知県岡崎市)の岡崎城で、松平広忠の嫡男(跡継ぎ)として、生まれた。

母は、松平広忠の正室、於大の方。

於大の方は、のちに広忠と、離婚して、尾張阿久居城主(現在の名古屋市)久松俊勝と再婚し、康元、康俊、定勝の母となる。

この兄弟は、家康の異母兄弟で、のちに松平姓を賜った。

父、松平広忠は、後ろ盾に今川義元の庇護があったため、岡崎城主として、復帰できた。

家康の産まれた頃、三河は、内乱状態であった。

そこへ、尾張の織田信秀が、攻め込み、松平方の支城(要の城)安城城(アンジョウジョウ)(現在の愛知県三河安城市)が、落とされ、織田が、三河に入ってきた。

これを打つという名目で、今川氏が、三河に大軍を送ってきたのである。

そんな中、12月26日に家康が誕生した。

幼名は、竹千代。

この竹千代の名は、父広忠の祖父、清康の幼名から与えられた名であり、松平家の正当な家督相続者(正しい、跡継ぎ)のしるしの名である。

【天文12年:1543年】竹千代の母、於大の方の父、刈谷城主(愛知県刈谷市)水野忠政が、死亡。

その後これを機に、於大の方の兄、信元が織田方につき、母於大の方が離縁される。

竹千代3歳、母と生き別れとなった。

【天文16年:1547】年竹千代が、駿府(今の静岡県静岡市)の今川氏へ、人質に送られる。

ところが、田原城主(愛知県田原市)戸田康光が裏切り、今川氏ではなく、織田氏の元の送られることになる。

織田信秀は、自分に仕えるよう要求するが、父、広忠はそれを拒否。

そのため竹千代は、軟禁状態に置かれることとなる。

【天文18年:1549年】父、広忠急死。

死因は、病死とも、家臣に殺されたとも言われている。

今川氏は、松平の重臣達の妻子を駿府(現・静岡市)に移し、岡崎城を自分のものとし、織田方の三河安城城を攻略した。

ここを守っていたのは、織田信弘であった。

この時、織田方の幽閉されていた竹千代と、織田信広の人質交換がなされ、竹千代は父の墓参後、駿府(現・静岡市)の今川氏へと送られることになる。

【天文18年:1549年】12月竹千代、駿府に到着。

竹千代の母代わりは、於大の方の実母、竹千代の祖母、源応尼(ゲンオウニ)であり、教育は、太原雪斎(タイゲンセッサイ)が行った。

徳川家康の年表 元服~桶狭間の戦い

【天文24年:1555年】竹千代、浅間神社(センゲンジンジャ)にて元服。

髪を理髪し、結い直す役は、今川一門の瀬名氏貞(セナ ウジサダ)の実子、関口親永(セキグチ チカナガ)加冠の役(冠をかぶせる役)は、今川義元自身が行った。

この時より名前を、竹千代をあらため、松平元信となる。

【弘治3年:1557年】関口親永(セキグチ チカナガ)の娘、瀬名姫(後の築山殿)と結婚。

【永禄元年:1558年】2月松平元信は、今川義元から、三河寺部城主(ミカワエラベジョウ)を攻めるよう命じられる。

これが、松平元信(後の徳川家康)の初陣である。

このころから元信をあらため、元康と改名。

【永禄3年:1560年】桶狭間の戦い 今川義元が織田信長に敗れる。

元康は、義元の帰りを大高城(オオタカジョウ)で、待っていたが、義元の死を知り、命からがら岡崎城へと帰った。

徳川家康年表 織田にくだる~徳川家康と名乗る

【永禄4年:1561年】於大の方の兄、元康の伯父を通じ、和睦が織田との間で結ばれる

【永禄4年:1561年】4月11日、今川方拠点、東三河牛久保城攻撃(ヒガシミカワ・ウシクボジョウ)

今川氏を裏切り、織田方についたことが、明らかになる

【永禄6年:1563年】元の字を捨て、家康に名を改める。

【永禄7年1564年】三河一向一揆(ミカワイッコウ・イッキ)が、起きた。一向宗は、本願寺教団の他宗派からの呼び名である。当時、民衆に、広く受け入れられ、信徒が、急増していた。

原因は、1562年に本證寺(ホンショウジ)に無法者が侵入したのを、家康が命じ、酒井正親(サカイマサチカ)が捕縛したことである。

治外法権(チガイホウケン)のような、聖域化されている所と、三河統一をしたい家康がぶつかったともいえる。

しかし、これは、ただの、一揆と言えないのは、家臣の中にも一向宗徒が多かった事ため、問題を深刻にしたことである。

戦闘は激化し、家康自ら陣頭に立った。

このことが一向宗徒のなかの家臣に効果があり、一向宗徒側から家康に和睦が申し入れられた。

これに乗じ、家康は、領内の一向宗を禁じることとなる。

三河が平定される。

【永禄9年:1566年】朝廷より、三河守(ミカワノカミ)に任ぜられ、苗字を徳川に改める。(徳川家康の誕生である。)

徳川家康の年表 今川氏の滅亡~長篠・設楽原の戦い

【永禄10年:1567年】嫡男(チャクナン)信康と、信長の娘、徳姫が、結婚

【永禄11年:1568年】武田信玄と同盟を結ぶ。

家康は信玄から、今川氏真のいる掛川城攻めを依頼され、今川氏真に和睦を申し入れる。

今川氏真は、家康からの和睦の申し入れをうけ、掛川城を開城し、ここに今川氏は事実上滅びた。

【元亀元年:1570年】家康は、岡崎城を嫡男である信康に譲り、今川の臣下の城であった、浜松城の大規模修繕を行い、居城とした。

【元亀2年:1571年】信玄が、2万3千の兵を率いて、三河に侵攻。

【元亀3年:1572年】信玄は、掛川城(現・掛川市)と高天神城(現・掛川市)を落とし、二俣城(フタマタジョウ)を、攻めた。

戦いは、固着状態となり、1カ月に及んだ。

その後、信玄は浜松城を素通りしていくのだが、家康は家臣の反対を押し切って出陣。

両者は、三方ヶ原で、交戦状態となった。

結果は、家康率いる徳川軍の大敗北となる。

【元亀4年(天正元年):1573年】信玄は病が悪化し、甲府(現・山梨県)に戻る途中で亡くなり、息子の勝頼が後を継いだ。

信玄の死は、秘密にされていたが、家康はそれを怪しみ、幾度も武田氏の所領となった駿河(スルガ)を攻めた。

その後、信玄の死を確信した家康は、長篠城(愛知県新城市)を攻撃した。

【天正3年:1575年】長篠(ナガシノ)、設楽原(シタラガハラ)の戦い。

長篠の戦い:家康が陥落させた長篠城を、武田勝頼は奪い返そうとして戦となる。

家康の元へ織田信長の援軍がきて、戦いは連吾川を挟んで武田軍と織田・徳川連合軍が対峙した。

設楽原の戦い:この戦いは8時間におよんだ。

この時、鉄砲による攻撃を武田軍は受け、武田軍は、多くの武将を失うこととなる。

さらに、家康が追撃隊を出し、武田軍はわずか数百人となり、勝頼は信州(現・長野県)高遠城(タカトウジョウ)まで落ち延びた。

長篠の戦い、設楽原の戦いは1日での出来事である。

家康はこの機に乗じ、駿河や、遠江(トウトウミ)に兵を進め、領土拡大の足掛かりとする。

徳川家康の年表 本能寺の変~豊臣秀吉の台頭

【天正7年:1579年】松平信康事件。

岡崎城主となっていた嫡男、信康と正室の築山殿が、謀反の罪で命を落とす。この事件は謎も多く、信長に命じられてという説と、家康の決断という説がある。

築山殿は、佐鳴湖(現・浜松市)の湖畔で切られ、首をはねられた。

【天正10年:1582年】本能寺の変

この時、堺にいた家康は、伊賀(現・三重県) 越えで、わずか2日で、三河に帰る。

【天正12年:1584年】小牧・長久手の戦い(コマキ・ナガクテにタタカイ)

信長の死後、秀吉は信長の長男信孝を自刃に追い込み、自身を天下人であるように振る舞いはじめていた。

信長の次男、信雄(ノブカツ)はそれに反発し、家康と同盟を結ぶ。

秀吉と親しい家臣3名を粛清(シュクセイ)した。

これを受け、秀吉は信雄(ノブカツ)追討の兵をあげた。

この戦いは、羽柴秀次が家康軍の追撃部隊に急襲されるなどがあり、家康軍の大勝利となった。

家康・信雄と秀吉の戦いは全国に普及し、あちこちで戦いが起きた。

【天正12年:1584年】12月、秀吉との和睦が成立。家康は次男の於義丸(オギマル)、後の秀康を秀吉の養子(事実上の人質)とすることで、決着した。

【天正14年:1586年】秀吉の妹である朝日姫と家康の婚儀が浜松城で行われる。

秀吉は再三、家康に上洛を促していたが家康は応じなかったため、秀吉は生母、大政所(オオマンドコロ)を岡崎に送り出した。

ここに至って、家康は大阪に赴き、講和を結んだ。

徳川家康の年表 江戸へ~関ケ原の戦い

【天正14年:1586年】12月、家康は本拠地を浜松城から駿府城に移した。

【天正18年:1590年】家康、関東を拝領し、江戸城入城。

秀吉との同盟を選び北条氏との同盟を破棄し、小田原城を攻める。

7月、北条氏直(ウジナオ)は自身の切腹と引き換えに、城兵の助命を嘆願を家康に申し出る。

これを秀吉は良しとせず、氏政、弟氏照、家老2人が自刃。

家康の婿の氏直は、家康が助命嘆願し、高野山へ送られることになる。

後、北条氏は滅亡となった。

北条氏の遺領、相模、武蔵、下総、上野、下野(サガミ、ムサシ、シモウサ、ウエノ、シモノ)は、家康に与えられたが、それまでの駿河、遠江、三河、甲斐、信濃(スルガ、トウトウミ、ミカワ、カイ、シナノ)が返上となった。

その後秀吉は朝鮮出兵を繰り返すが、慶長(ケイチョウ)3年(1598年)に死亡。

豊臣家を支えていた、前田利家も、翌年、亡くなる。

それにより起きた政権の内紛を家康が納め、秀頼の補佐役を務めていた。

慶長5年:1600年、関ヶ原の戦い

家康は豊臣政権下の大名を率いて、会津上杉の討伐に出兵。

帰る途中で、石田三成(ミツナリ)挙兵の知らせを聞き、江戸へ帰った。

三成は、内府(ナイフ)である家康が臣下の道をたがえたと、家康を糾弾し、西軍を結成。

家康は東軍を結成し、三成討伐を淀殿から依頼される。

三成達西軍は破れ、東軍の勝利となった。

徳川家康の年表 江戸幕府を開く~晩年

【慶長8年:1603年】征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。

【慶長10年:1605年】征夷大将軍職を秀忠に譲る。

将軍職は、徳川家の世襲と公に示す。

江戸城を秀忠に譲り、家康は駿府で隠居した。

【慶長19年:1614年】大阪の冬の陣

大阪冬の陣:家康は秀忠が、江戸に参勤するか大阪城を退去するか、淀殿が江戸で人質になるかの、条件のいずれかを選ぶよう伝えたが、豊臣方はすべてを拒否したため戦になる。

豊臣方は、外堀を埋めるという条件で、家康と講和した。

家康は、内堀も埋め豊臣家は大和か、伊勢に移るか、浪人を城から出すかを迫るが、豊臣方が拒絶。

【慶長20年:1615年】大阪夏の陣。

結果、淀殿と秀頼は自害し、豊臣家は、滅亡。

【元和2年:16160年】家康、駿府城で死去。(享年75歳)

徳川家康の生涯年表 まとめ

最終的には江戸幕府を開き、天下人と呼ばれるようになった徳川家康ですが、こうして年表で見て見るとかなり苦労しているようにみえます。

人質時代をすごし、また、今川義元の養子のようにも過ごし。

織田と今川のあいだで難しい立ち位置におかれ。

豊臣の臣下としてすごし、最終的に戦うことになり。

学校の歴史ではほんの一部しかみえていませんが、こうして年表にすると、みえなかったものがみえてくる気がしますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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